三つ子の魂百までとは

ふと、自分のコンピュータ利用歴というものを振り返ったとき、「三つ子の魂百まで」という言葉を思い起こさずにはいられない。

初めて触ったゲーム機じゃないコンピュータは、OMRONのLunaというマシン。OSはBSDUNIXがインストールされていた。大学一年の4月、できたばかりの真新しいキャンパスの真新しい教室で、ユーザアカウントを作り、最初はひたすらタイピングの練習だった。そして、emacs上でメールを読んだり、emacs上でファイルを編集してlatexで書式を整えてレポートを提出したり、NetNewsを覚えてヒマを見ては新着記事を見たり自分の関心のあるNewsGroupにpostしたりしていた。そういう学生生活を送る中で、指はemacstcshのkeybindを覚え、コントロールキーはAの右にあるべきだと思うようになったし、何よりもコントロールキーとの組合せのショートカットキーを使うエディタでなければ文章なんて書けないと思うようになった。
そのうち、Macintoshと出会い、親に「どうしても授業で必要だから」とウソをついてMacintosh LCIIを購入した。それと前後して、NeXT cubeに感激し、黒いボディとMacintoshっぽいGUIBSD UNIXっぽいコマンドラインでの操作が可能なことに、「これこそが本物のコンピュータだ」と思った。
そんなこんなで、就職活動の時にも、NeXTに縁のある会社を選んだ。

今や、三十代後半のおっさんになったオレだけど、コントロールキーはAの横になければと思っているし、会社でWindowsマシンを自分用にあてがわれたら必ずCygwinMeadowをインストールするし、自宅ではあのNeXTの末裔のMacOS Xでやっぱりemacsを使っている。会社では古くなってもう使われていないけど資産管理上捨てられないマシンにFreeBSDやらGNU Linuxやらをインストールしてみたりするのも相変わらずだし、「WindowsUNIXじゃないからイヤ」というメンタリティが未だに捨てられないままだったりする。
結局、最初のコンピュータ体験の呪縛から離れられていないワケだ。

こういうことを、「三つ子の魂百まで」と言ったりするんだろうな、、、。